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■竹山病院
 竹山病院は新潟市の上大川前通りにある。信濃川にほど近い市の中心部である。約千坪の土地に、外科、内科、婦人科あわせて六十床の木造の病院と、院長の竹山正男の私邸と土蔵が二つ建っている。久作が就職して4年目の大正四年、石造り二階建ての本館が落成した。
篠田達朗著 (法王庁の避妊法)より引用。
■竹山病院の沿革
 竹山病院の起源は明治18年(1885)、竹山 屯(たむろ)が、信濃川にほど近い市の中心部である 新潟市上大川前通り6番町に「日新堂」と称する医院を開業したのに始っている。
 明治36年には、娘婿である沢田敬義(のちに新潟医大教授となる・新潟市名誉市民)を迎えて内容・外観ともに新潟市の一偉観と称せられた洋館の病院を新築した。これを期に竹山病院と改称した。
 明治41年の新潟大火の際に類焼したが、仮建築をもって対応し、大正4年〜大正13年の期間に増・改築を行ない今日の旧館を本館とした外科・内科・産婦人科あわせて60床の病院の形態が整った。
 昭和11年 、第2次世界大戦に際して救護病院に指定され公的医療機関としての性格が強くなり、当局の勧誘に従い昭和20年8月より「日本医療団」に経営を移管した。
 戦後、昭和25年9月「日本医療団」が解散し病院の返還を受けるに当たって、当主竹山初男が父祖伝統の精神に鑑みると共にその光栄を記念するために寄付行為に依り財団医療法人を組織し、医学の研究を行ない病院を開設して社会福祉の増進に寄与すべく医療法人「竹山記念会」を設立した。
 昭和30年の新潟大火にて全館類焼したが、2ヶ月後に病院を再開し、住民の医療に尽くした。昭和32年に本建設となった。
 平成10年には6階建ての産婦人科を中心とした新病院が完成し、現在に到る。
 このように、120年以上にわたって時代の変遷と地方の実情に即して設備と内容を整備し、地域医療に専念してしてきた歴史のある病院です。
■「参考」
●竹山 屯
 慶応元年長崎に留学して医学を学び、新潟県医官となり、新潟医学校長(現新潟大学医学部)の職に就いて医育に尽瘁し、特に明治11年明治天皇の北陸巡幸に際して越後に入ってから沿道の住民に目の悪い者が非常に多い事に気付かれ病院長にご下問があり、その原因を当時として非凡な卓見をもってこれに奏上したことにより、ご下賜金を賜り眼疾の治療及び予防に尽くすようご沙汰があり、これを記念した石碑が現在も新潟医学所跡地に建立されております。竹山病院開設者。

●荻野久作
 昭和50年1月1日没。勲二等旭日重光章を叙せられ、紫綬褒章、朝日文化賞(オギノ学説による人口問題への貢献)などを受ける。臨床医としても竹山病院着任以 来60有余年に亙り、患者20万人以上の診療に及び地域保健の向上に多大な貢献により新潟市より名誉市民の称号をうけた。現在、先生の住宅のあった場所は「オギノ公園」となり、前の市道は「オギノ通り」として残されている。竹山記念会初代理事長。

●「オギノ学説」
 自然に逆らわない避妊法としてロ−マ法王が認めた唯一の避妊法
医療法人 竹山病院
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